紛争と解決

危機発生当初から、米軍は人質奪還のための計画を立て始め、1980年4月初旬には、有意義な交渉相手を見つけられないまま、米政権は軍事オプションを模索していた。 イランの政治的混乱にもかかわらず、人質は元の捕虜によって大使館内に拘束されていた。 4月24日、アメリカの小規模な機動部隊がテヘラン南東部の砂漠に上陸した。 そこから特殊作戦部隊の兵士がヘリコプターで第2の集結地に向かい、大使館を急襲し、人質を事前に確保しておいた滑走路に運ぶことになった。 その後、兵士と人質は空路で撤退することになる。 しかし、この作戦には最初から問題があった。 派遣された8機のヘリコプターのうち、2機が第1中継地に到着する前に故障し、さらに1機が現地で故障してしまったのだ。 任務を完遂できずに米軍は撤退しようとしたが、その際、残った1機のヘリコプターが支援機と衝突。 8人の米軍兵士が死亡し、遺体はイランのテレビカメラの前に晒された。 カーター政権は、ミッションの失敗と犠牲者を出したことに屈辱を感じ、遺体をアメリカに戻すために多大なエネルギーを費やした。 この作戦に反対していたヴァンス国務長官は、抗議の意を込めて辞任した。

1980年5月には、米国は最も近い同盟国を説得して、イランに対する経済封鎖を発動した。

1980年5月には、米国は同盟国を説得して対イラン経済封鎖を発動したが、それだけではイランの決意を弱めることはできず、7月27日の国王の死によってもジレンマは解消されなかった。 しかし、その後に起こった2つの出来事によって、危機の解決の可能性が高まった。 1つ目は、8月中旬にイランがようやく新政府を樹立し、カーター政権は直ちに外交的な打診を行ったことである。 次に、9月22日にイラクがイランに侵攻した。 その後、イラン・イラク戦争(1980~88年)が勃発し、短期的には人質交渉から解放されたものの、禁輸措置によりイランの経済は疲弊し、イラク軍を食い止める力も失われていった。 また、10月に国連を訪問したイランのラジャイー首相は、多くの首脳から「米国人を人質にしている限り、イラク戦争への支援は期待できない」と言われたという。

これを受けて、イラン側は新たに交渉に乗り出したが、ラジャイーは「直接交渉はしない」と主張し、アルジェリアの外交官が仲介役となって交渉が進められた。 交渉は1980年末から1981年初めにかけて行われたが、イラン側の要求は凍結されたイランの資産の解放と貿易禁止の解除が中心であった。 合意が成立し、1981年1月20日、ロナルド・レーガン新大統領の就任直後に人質は解放されました。

イラン人質事件
イラン人質事件

イランで拘束されていた人質が解放された5日後の1981年1月25日、アメリカに到着した元人質たち。

MSGT Deal Toney/U.S. Department of Defense

イランの人質事件
イランの人質事件

1981年1月25日、イランから解放され、家族に挨拶するゲイリー。

U.S. Department of Defense

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